キリマンジャロから帰ってきて1ヶ月半が経った今でも、Stella Point ステラポイント、5,756mまで自分が行ったことが、どこか自分のことではないような気がしている。
よく行ったな、と思う。
でも、根性で登ったとは思っていない。
最初から、手を引かれていた。
サミットアタックの日、私は最初から現地ガイドに手を引かれて歩いていた。
赤ちゃんか子どもみたいに、ずっと手を引っ張られていた。
実は、ものすごく歩きにくかった。
帰ってきてから、「手じゃなくて紐か何かで引っ張ってもらったほうが歩きやすかったんじゃないか」と思った。でも、あのときはそんなことを考える頭もなかった。
酸素が薄くて身体がきついだけじゃない。
頭もだんだん働かなくなる。
54年も生きてたら、精神的につらいことも、肉体的につらいこともたくさんあった。でも、身体が動かなくなって、酸素が足りなくて、常に息が苦しくて、でも登り続ける、その状況をどうしたらいいか考える頭まで働かなくなるというのは、私にとっては別次元のつらさだった。
途中で何度も、やめたいと思った。
誰かに「帰る?」と聞かれていたら、「うん」と答えて帰っていたと思う。
それでも歩いていた。
なぜ歩けたのか。
一つは、山岳チーフガイドがずっと手を引いてくれたからだと思う。
後になって彼と話したら、時間もお金もかけてここまで来た人を、安全に行ける状態なのに自分が行かせられなかったら、それは自分の問題だ、というようなことを言っていた。
だからあの日、ステラポイントまで行こうという意志は、途中から私より彼のほうが強かったのかもしれない。
そしてもう一つは、参加者が一緒にいたからだと思う。
私は山岳ガイドではない。自然観察のために山は登ってきたがここは違う。信頼のおける旅行社と山岳ガイドの友人にバックアップしてもらえた環境だったから、腹もきめて、数年かけて準備して今回に臨んだ。
そんな私にこの旅をオーダーしてくれ、一緒にキリマンジャロへ行くことを選んでくれた人たちが一緒だった。
私は、人を連れていく側に普段はいる。いや、今回もそうだった。
でもキリマンジャロでは、たぶん私が一番弱かった。
サミットアタックの日は高度障害がでた人もいたけれど、トータルで見れば私が一番歩けなかった。常に息苦しかった。4,000m台で岩登りをするなんて、岩登りは好きだけど辛いだけだった。頭痛や下痢などの高山病が、ほぼなかったのが幸いだった。そして、夜もよく眠れた。
リーダーなのに、現地ガイドに手を引かれて登っていた。
もう今さら、それを格好よく書き換える必要もない。
一人だったら、私は途中で帰っていたかもしれない。
みんながいたから歩いたし、歩けた。
私にオーダーしてくれたこと、一緒に行こうと思ってくれたこと。
今振り返ると、本当にありがたかったと思う。
あの人たちがいなかったら、私はそもそもキリマンジャロに行かなかった。
だからステラポイントにも立っていなかった。
「着いた。」
ようやくステラポイントに着いた。23時頃にキャンプを出発して、6時30分だった。
本当にちょうどご来光が上がってきて、それには驚いた。
でも正直、ご来光なんてどうでもよかった。
感動するとか、景色が素晴らしいとか、それどころではなかった。

「着いた」
「もう動けない」
「私はここまででいい」
「やっと降りられる」
それだけだった。
頂上のUhuru Peakウフルピークまでは、さらに標高差139m。
でも、あのときの私にとって139mは「あとたった139m」ではなかった。
もう無理だった。帰ることを考えたら、もっと早く戻るべきだった位。
登る前から稜線を越えた景色が見たい、ステラポイントまでは行きたいとは思っていたが、実際に到着して、ここで終わりにしよう。もうこの先は行けない。
今でもそれでよかったと思っている。
やっと降りられる。でも一日は終わらない。
ステラポイントに着いたとき、「これでやっと降りられる」と思った。
でも当たり前だけれど、そこから自分の脚で降りなくてはいけない。
サミットアタックが終わったからといって、一日が終わるわけではなかった。
キャンプまで降りてきたときには、本当にもう動けなかった。動きたくなかった。
テントの中に入って、登山靴を履いたまま横になった。
靴を脱ぐことすらできなかった。
サミットに登頂した二人と共に、チーフガイドのジョセフが降りてきて、テントの中で靴を履いたまま寝ている私を見つけた。
そして靴紐をほどいて、靴を脱がせてくれた。
私はそれくらい何もできなくなっていた。
キャンプに戻ったとき、粉を溶かして作ったパインジュースを手渡してくれた。
5,000m近いキャンプでは夜外に置いておくだけで凍ってしゃりしゃりして冷たくなる。
途中のキャンプで既に出されていたが、飲まなくてもいいと思った味だったので、一度口をつけてそれ以降飲まなかった。
でも、その冷たいパインジュースが、おいしくて、おいしくてたまらなかった。
シェフが「Congratulations」と言ってくれた。
私は、
「でも、サミットには行ってないよ。ステラポイントまでしか行ってない」
と言った。
すると彼は、ステラポイントまで行ったんだから同じようなものだ、と言ってくれた。
ありがとう、とは言った。
たぶん、すごくうれしかった。
でも、その気持ちをちゃんと返事にする力もほとんど残っていなかった。
椅子を用意してくれて、私はそこに座って、一応彼の目を見て話していた。
でも、ほとんど死んでいた。
そのあとテントに入って寝た。
ジョセフに靴を脱がせてもらって、また寝た。
そして、ご飯を食べた。
食べたら、また歩けた
もう昼ご飯なんていらないと思っていた。
食べたくない。
寝ていたい。
もう動きたくない。
食欲はない。それでも食べた。
そうしたら、また歩けるようになった。
あのとき、食べるということはすごいことなんだと思った。
後になって、参加メンバーから言われた。
「橋場さんが結局、一番最後まで食べて、補給してる。だから持つんだなと思いました」
よく見ているな、と思った。
私は高所に強かったわけではない。むしろ4人の中では、一番影響を受けていた。
でも、休んだ。
食べた。
補給した。
そして、また歩いた。
ヘリに乗るか、と言われたときには、正直、乗りたいと思った。
でも、自分だけヘリに乗って帰るわけにはいかないと思った。動けなかった体も少し寝て、食べたら信じられないほど復活した。
そしてまた歩いた。
これは「根性で乗り切った」という話ではないと思う。
弱ったら休んだ。
燃料がなくなったら食べた。
自分だけでは歩けないところでは手を引いてもらった。
靴すら脱げなくなったら、脱がせてもらった。
そうやって、その都度なんとか身体を動かし続けた。
一番歩けなかった。
でも、一番休んで、一番補給して、一番食べた。
それで最後まで持った。
そして、まだ歩いた。
みんな疲れていた。
本来予定していたキャンプ地まで行くのは無理そうなので、予定より手前のハイキャンプでテントを張ってもらうことを依頼した。
そこまで、また歩いた。2時間も歩いた。ぼろぼろの脚だけど、平坦な道は助かった。
夜中にサミットアタックを始めて、ステラポイントまで登って、降りて、休んで、食べて、また歩いて。
本当に長い一日だった。
しかも午後になるにつれて、どんどん天気が悪くなった。ハイキャンプで夕食を取るときには、雨が降っていた。今回、初めての雨だった。
「明日はどうなるんだろう?」
と思ったのを覚えている。
帰国してから、吹雪と地吹雪になっているキリマンジャロ山頂の映像を見た。
ちょっとした天気の違いで、こんな世界になるのかと思った。
あの日があんな天候だったら、私は絶対にステラポイントまでも行けなかった。
本当に、いいタイミングで上がれたんだと思う。
一人では行けなかった。それでも行けた
だから、自分が頑張ったから行けた、とは思っていない。
ガイドが手を引いてくれた。
みんなが一緒にいた。
シェフ、ポーターほか、20人のタンザニア人のメンバーが助けてくれた。
休んだ。
食べた。
補給した。
天候にも恵まれた。
そして私の身体も、ぎりぎり5,756mまで動いてくれた。
そういうものが全部重なって、私は急斜面を登り切り、ステラポイント(5,756m)でようやく稜線、キボ峰の火口縁に出た。

帰ってきてから知ったのだけれど、Stella Pointの「Stella」は人の名前だった。
1925年、夫とともにキリマンジャロを登り、ここまで到達したEstella “Stella” Latham。その場所は、彼女を称えてStella Pointと名付けられたという。
100年以上前に一人の女性がここまで登り、その名前が今もこの場所に残っている。
そう思うと、あの日はただ「もう無理、ここまででいい」としか思えなかったStella Pointが、帰ってきてから少し違って見える。
あの日以来、自分の中の「きつい」の基準値が壊れてしまった。
筋トレできつくなっても、
「あれに比べたら、これはなんてことない」と思う。
普通に酸素がある。
頭も働く。
やめようと思えばやめられる。
あの日とは全然違う。
今の私には、あれ以上の肉体的なつらさが想像できない。
2026年夏の、いや、今年いちばんのビックイベントが終わった。南極の旅の後もしばらく魂が戻ってこないような、不思議な感覚があったけど、今回も似たような感じだ。
Stella Point、5,756m。
今でも、自分がそこまで行ったことが少し信じられない。
一人では行けなかった。
それでも、行けた。
そして、ちゃんとみんなで帰ってきた。
9月からは、また新しい旅がはじまる。



