今回の観察では動かずに待つことが、最も大事な行動となった。
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ユキヒョウは、探して見つかる動物じゃないと彼らの生息地に行って実感した。
“見えた瞬間”に、こちらの動きが試される動物だった。あとから知ったけど。
冬のモンゴル。朝の光は柔らかいのに、空気は硬い。車から外に出ると、外気が服のの上から刺さってきた。顔周りは出ているところがあるから特に。
寒さの中にいるだけで、身体が少しずつ削れていく。風がないだけましで、自分が雪を踏みしめる音だけ響いた。
ユキヒョウは岩山、渓谷に棲む動物。雪のヒョウというより、岩の王者のイメージ。いそうな場所をチェックしながら進んでいたら、ガイドの声が急に低く、速くなった。
「いる、顔が見える。」
最初に見たとき、確かに見えた。
ほんの少しだけ。
洞窟の奥の暗さの中に、顔がちょっぴり浮かんでいた。
確かにいたが、ユキヒョウは洞窟の中へ、すっと引っ込んでしまった。
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ガイドが言った。
「行くぞ、急げ!」
洞窟に近づくわけじゃない。
向かうのは、洞窟が正面に見える対面の場所。少し高いところだ。
そこへユキヒョウが次に顔を出すまでに行って、座って止まって待つ必要があった。
私たちがそこで先について動かず、落ち着いていないと、もしユキヒョウが顔を出しても、またすぐ洞窟の中へ戻ってしまうという。
だから、急ぐ。
本当に急がされた。
防寒を整える余裕なんてなく、とにかく急いだ。
でも、モンゴルの寒さの怖さを、私はすでに身体で少し知っていた。
マヌルネコの観察のとき、右手の手袋が薄いものしか付けてなくて、途中から指先がじんじん痛んだ。あれはもう凍傷の前触れだったと後から知った。
その違和感を抱えたまま迎えたユキヒョウの待機は、吹きさらしで逃げ場もなく、右手は「痛い」を通り越してうまく動かなくなった。寒すぎた。メガネが凍って見えなくなり、それをどうにかしたくて手袋で拭くしかなく、そうしたのもよくなかった。
気づいたときには、凍傷は“っぽい”ではなく、凍傷になっていた。
旅の序盤の私は、まだ冬のモンゴルの寒さをわかっておらず、マイナス30℃以上の世界で“止まる寒さ”を理解できていなかった。
洞窟の正面を見渡せる場所へ登りきって岩と雪のうえに座った。車の中じゃない。厚い雪山登山用のズボンは履いてたが、「寒い」というより、痛かった。寒さが“攻撃”みたいに押し寄せてきた。
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動くな。
洞窟の正面に着いて座った後、そこからは待つ時間だった。
待つと言っても、ただの待機じゃない。
動かない。大きな動きはもちろん、顔の向きすら慎重にする。小さな動作でも目立つ。
鳥なら、多少は動いて、距離を詰めていくことができる。でも哺乳類は違う。とくにユキヒョウは違った。
相手が洞窟の中にいる間、こちらは何もできない。できるのは「ここにいる」という状態を保つことだけ。
じっとしていると血が巡らなくなり、より冷えてくるしメガネが凍って見えないのに動くなと言われる。これじゃ、出ても見えない、その矛盾が苦しかった。
息を吐くたびにメガネが曇る。曇りはすぐ凍って、白い膜みたいになっていく。視界が一気に鈍る。はじめは、なぜ見えなくなるのかがわからなかった。マイナス30℃を超えると“メガネは呼気で凍る”とこの時初めて知った。メガネを外したい。拭きたい。でも、その動作は大きいものだった。
手先の感覚が薄れていくほど寒いのに、洞窟から目を離せない。指先の痛みも、冷たさも、だんだんどうでもよくなってきた。寒さは「判断」を奪っていった。
私たちができるのは、洞窟の暗がりからユキヒョウが現れるのを待つことだけだった。
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どれくらい待ったのか、時間の感覚が曖昧だった。今回の寒さの中では、いつものように時間の記録を取ることが出来なくて、よくわからない。
ユキヒョウは、顔を出した。
洞窟の穴から座った状態で体を出しては、また洞窟に戻り、戻っては、また顔を出す。もどかしいような、でもかけがえのない時間が目の前でくりひろげられた。
そして、洞窟の入り口から、ついに歩き出て、4本足が、完全に身体がでた。滑り出るように現れた。
踊り場のようなところに出て、真っ直ぐこちらを見ている。
その瞬間、世界の音が一度消えた気がした。
圧倒された。
長い太い尾、模様、そして身体の線そのものが美しく目が離せなかった。
全身が洞窟からでて、少し上がり気味の尾の先まで全部見えた時、“おー!全部でたー!!”と心の中では叫んでいた。
ユキヒョウは、そこに「いる」だけで場を制した。“王者”ってこういう存在感なんだと思った。すごい、すごいと心の中で叫び続けていた。
ユキヒョウは、こちらを気にしつつ、踊り場から急な岩場を登り、その裏に行ってしまった。
それで終わり、消えてしまったと思ったが静かに待っていたらまた戻ってきて洞窟へ入り、また顔を出してからしばらくして出て、こちらの様子を伺い、もう一回岩山を登った後はそのまま戻ることはなかった。
2回目にユキヒョウが全身を現したその時、奇跡みたいなことが起こった。どんぐもりの厚い雲が朝から空を覆っていたのに、ユキヒョウが現れた時に少し青空が見え明るくなった。ユキヒョウが消えた後、改めて青い空を見上げて思った。出会えたのも、この青空も奇跡だなと。生きものに出会う旅をしていると奇跡は頻繁に起こる。毎回心が震える。
およそ10分くらいの観察、すばらしい時でした。
途中で指先はひどく冷たく、昨日と同じくちぎれそうなくらい痛くてたまらなくはなったけど、その場を離れる理由にはならず
車に戻ろうとした時もすぐに身体は動かせなかったけど、ユキヒョウに出会えて幸せで胸がいっぱいだった。
そのシチュエーションを組み立ててくれたガイドに感謝しかない。顔を出していてくれたメスのユキヒョウにも。

ユキヒョウ観察は「先に止まって待つ」ことが最重要だった。
会えたのは先に「止まれた」からだ。
その日、私はユキヒョウに会えた。
極寒体験とセットで、忘れようがない形で。
代償として、寒さは骨まで染みた。右手指は凍傷になった。
それでも、あの全身を見た瞬間、私は思ってしまった。
来てよかった。
冬のモンゴルのユキヒョウは美しかった。
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次回予告
次は“暮らし”編へ。保存食の本来の意味を知った乳の知恵が、旅の温度を変えた。
*生息地保護のため、洞窟の入口が見える写真は載せない約束をしています

